クリエイティブな子供たち5 教育の目的 福沢諭吉編2

前の記事から間隔が空いてしまいました。まだ学問のすすめ 初編のしかも途中だったのですが、続き
を見ていきたいと思います。さすがに学問のすすめに関しては長くなりそうです。初篇の続き

人の一身も一国も、天の道理に基づきて不覊自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚るに足らず。

個人も国も自由なのは天の道理。国の自由が奪われそうになったら、たとえ全世界を敵に回したとしても恐れることはない。個人の自由を奪おうとする者がいたら、たとえそれが政府の役人であっても遠慮はいらない。

自由は何があっても、全世界を敵に回してでも!、守らなくてはいけないのである。

ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、いずれも安心いたし、ただ天理に従いて存分に事をなすべしとは申しながら、およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。

身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。
物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。
これすなわち学問の急務なるわけなり。

士農工商の世の中から四民平等の世の中になった。誰もが安心して自分のなすべきことをなすことができる。しかし、誰でも何をやってもよいというわけではない。それぞれの立場、役割に応じて必要な能力と行いがなくてはいけない。

~それはそうですね。医学の知識もないのに医者になられたらたまりません。字が下手では書の先生にはなれません。それぞれの本分を全うするためには才徳(才能と徳行)を身につけなくてはいけません。

昔の日本は「徳」に非常に重きを置いていました。「才徳」ですから、能力だけではなく、人格者としての行いが求められています。
その才徳を身につけるためには物事の道理を知らなくてはいけない、物事の道理を知るためには学ばなければならない。だから学問が必要なのだ。武士だけが政治を行ってきた江戸時代までとはちがって、農工商の人間でも政治家にも慣れれば医者にもなれる、教師にもなれる。しかし、それに相応しい人物になるために学問、教育が非常に重要であるということです。

このあと諭吉は「無智」を激しく否定しています。智恵なきの極みは恥を知らざるに至り、と言っています。無智と無恥。また、相応の身分があっても子弟に教育をしなければその子孫は愚か者になると言っています。

そしてここからがまた面白いところです。

かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏すのみ。西洋の諺に「愚民の上に苛き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり。

「天は自らを助くるものを助く。」

スマイルズの自助論(西国立志論)は明治維新後の日本において学問のすすめと肩を並べるほどの大ベストセラーとなったそうです。福沢諭吉も当然大きな影響を受けていたはずで、学問のすすめで説かれていることにはスマイルズと共通するところが大いにあります。

自助論には次のような個所があります。

「一国の政治というものは、国民を映し出す鏡にしかすぎません。」
「国がどんな法律をもっているか、そこに国民の質が如実に反映されているさまは、見ていて面白いほどです。」
「りっぱな国民にはりっぱな政治、無知で腐敗した国民には腐り果てた政治しかありえないのです。」

自分たちが賢くならないと政府が悪政をおこなって自分たちを苦しめることになる、と言うのです。
これはなんとも考えさせられるとともに身につまされます。
逆にもし国民が学問に志して物事の道理を知り、智恵と徳を身につけたならば政府もそれに見合った良政をおこなうようになる、ということです。まさに鏡です。

学問をすることで賢くなり、政府に悪政をさせないようにする。ちょっと言い方が悪いですが、そのように言いかえる人もいるでしょう。仮にも民主主義の世の中になったのですからこれはなおさらのことです。「民主」主義、「国民」主権ですから主権を持つ国民=私たちが愚かだったら大変です。昔は年貢を納めていれば政治のことは考えなくてもよかったのですが、今は国の政治のことを1人1人が考えなくてはいけなくなりました。(理屈、理想では)国民主権ですから。主権を王様から取り上げて自分たちの手に納めたということは。

 

法の苛きと寛やかなるとは、ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政を悪む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、これすなわち人たる者の常の情なり。

法、政治の良し悪しは国民の徳のレベルで決まる。
良政よりも悪政を好むものがいるだろうか。
自国が外国に馬鹿にされるのを平気でいられるものがいるだろうか。

ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、博く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政を施すに易く、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。

国民は
行いを正し、
学問をして
幅広く知識を身につけ、
それぞれの本分に見合った智恵と徳を身につけることで良い政治がおこなわれ、国民は悪政に苦しむことなく、ともに平安(ここには国と個人の自由も含まれていると考えます)を守らなくてはいけない。

学問のすすめ 初篇ではこのようにまず「人類の幸福」が目的であるとし、「自由、独立」の価値、貴さ説き、国民の智恵と徳が良政を、無智、腐敗が悪政を招くことを説いています。

さあ、お子さんに「なんで勉強しなければいけないの?」と問われたら何と答えますか?
ちょっと乱暴ですが、学問のすすめ 初篇で掲げられていことを端的に表すと「人類の幸福のため」「自由のため」「平和のため」。
しかし、言葉で言うだけは簡単ですが、その内容、本質は実に深く意義のあるものですね。
誰でも幸せになりたいはず。学問はなんと幸せになるため、しかも自分だけではなくみんなが幸せになるためにある、本来はそうだったはずですよね。

投稿者: ASOBO!