学校、教育、勉強の目的って何でしょうか?
真剣に考えてみませんか?などと言ってはみたもののあんまり真面目くさってもよくないので少し気楽にいきましょうか。
まあ、最近は便利なもので、課題が出されればグーグル先生に尋ねればなんでも即座に教えてくれます。ときには読みもしないでコピペで済ますことも、なんてまさか、ね。
ご多分に漏れず、私も早速グーグル先生に聞いてみました。
いえ、まずは色々な考え方を知るということが大切ですから。
アンチョコで模範答案を探そうってわけではありませんよ(汗)
で、「教育 目的」で調べてみると、、、
なんとあの「武士道」を著し、五千円札の顔にもなった偉大な人物、新渡戸稲造が教育の目的について書いているではないですか。
さらには一万円札の福沢諭吉も。
自分のお粗末な脳味噌と経験から主観で凝り固まった教育論をぶつよりも偉大な人物の虎の衣を借りた方が、、、いえいえ、偉大な人物の考えに学ぶところは大きいはず。
まず、新渡戸先生から。
新渡戸稲造 教育の目的
これがまたユーモアと皮肉に溢れていて、どこまで本気でどこまで冗談か判別しかねる非常に面白い文でした。
ぜひお読みください。
少し話が逸れますが、次の文章なんかは身も蓋もない書きっぷりに爆笑。
前略~職業教育を狭くやると、そういう弊に陥おちいって来る。それならといって、僕は決して職業教育をするなというのではない、職業を求むるために教育をすればまた宜いこともある。
それは独逸の例を見れば分る。かの鈍い独逸人、あれほど国民として鈍い者はあるまいと思われ、皆が豚を喰い、ビールを飲んで、ただゴロゴロとしているので、国民としては甚だ智慧の鈍い者である。そうして愛国心なども有るのか無いのか、ようよう三十余年前に仏蘭西と戦争をして勝ったから、アアおれの国もやッぱり人並の国だわいと思って、初めて一個の邦国たる自覚が起った。かく未だ目が覚めてから四十年にもならない、それまでは熟睡しておった国である。その国民にして今日の如き進歩をなしたのは、主としてこの職業教育が盛んになった結果であることは僕が断言して憚はばからぬ。故に国を強くし、殊に殖産を盛んにする国是こくぜの定まった以上は、職業のために――位地のためとは言わない――教育することは誰しも大いに賛成する所である。
1907年に書かれているので100年以上も前のことですが、「あれほど鈍い者はあるまい」「ビールを飲んで、ただゴロゴロしている」「甚だ智慧の鈍い」とかそこまで言うか、普通??
と思いますがまったくお構いなし。
すみません、これは新渡戸先生の言葉をそのまま引用したのであって私の意見ではないことをご承知おきください!!
そして新渡戸稲造の考える教育の目的とは、ずばり端的に言うと、これまた引用します。
即ち教育の目的とは、第一職業、第二道楽、第三装飾、第四真理研究、第五人格修養の五目に岐わかれるのであるが、これを煎じ詰めていわば、教育とは人間の製造である。しかしてその人間の製造法に就いては、更にこれを三大別することが出来ようと思う。
職業教育、道楽としての教育、装飾としての教育、真理の研究、人格修養の5つだと。
そして、人間の製造方法について以下の例をあげています。これをあげているところに改めてその偉大さを感じます。
一、 左甚五郎方式
二、フランケンシュタイン方式
三、ファウストのホムンクルス方式
※詳しくは原文を参照
そしてこう結んでいます。
第一の左甚五郎の如く、ただ唯々諾々いいだくだくとして己れを造った人間に弄もてあそばれ、その人の娯楽のために動くような人間を造るのであろうか。
あるいは第二の『フランケンスタイン』の如く、ただ理窟ばかりを知った、利己主義の我利我利亡者で、親爺の手にも、先生の手にも合わぬようなものを造り、かえって自分がその者より恨まれる如き人間を養成するのであろうか。
はたまた第三のファウストの如く、自分よりも一層優れて、かつ高尚なる人物を造り、世人よりも尊敬を払われ、またこれを造った人自身が敬服するような人間を造るのであろうか。
この三者中いずれを選ぶべきかは、敢て討究を要すまい。しかしてこれらの点に深く思慮を錬ったならば、教育の目的、学問の目的はどれまで進んで行くべきか、我々はその目的を何所どこまで進ませねばならぬかということも自から明瞭になるであろう
ぜひ原文を読んでみてください。深く考えさせられます。
新渡戸稲造 教育の目的
しかし、これはどちらかというと天下国家の教育論。
では我が子について実際にどうなのかと考えると
もっと具体的に考えを落とし込んでいく必要があるように思います。
ただ、人間五千円札を手にすると一万円札も、と思うのが人情?!
学問のススメ、福沢諭吉翁はどのような考えなのでしょうか?