前回までは「学問のすすめ」初篇を紹介しました。本当は全編じっくり扱いたいのですが……
ぜひお読みください。
福沢諭吉は教育の目的をたった一言で言い表すならば、「人類の平安のため」と言い切りました。そして、国民1人1人が賢くならないと悪政を招いてみなが苦しむと述べています。
「学問のすすめ」は1872年から1876年にかけて発行されています。
そして、その70年後、日本は戦争を遂行し、敗戦を迎えます。
今年、2015年はその敗戦からさらに70年目。
前回コメントを頂いた折にこのことと関連して思い出した文章があります。
国民が賢くならないと悪政を招く、という点に関連します。
明治になり、学制がしかれ、国民は賢くなったのか。
簡単に答えが出せることではありませんが、70年後、日中戦争、太平洋戦争とその敗戦という道筋をたどった日本という国の中で国民自身の行動はどうだったのか。
それについて大変考えさせられる深~い文章を大分前に知人から教えられました。
以来、ずっと頭の中にこの文章が残っています。
「戦争責任者の問題」 伊丹万作
胸に手を当てて読まなければいけない大変重要な文章です。
敗戦の翌年4月に書かれています。同年9月逝去。
かいつまんで数か所抜粋を載せますが、ぜひ本文をお読みください。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。
さて、「だまされた」ということに関して、伊丹万作は以降の文章で大きくわけて2つの論を展開しています。
まず1つ目の論です。
たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
「だまされた」と言ってだました人間が悪い、自分に責任はない、と多くの人が思っているが、
実際はそういう自分たち自身がだます側にも回っていたのではないか、ということです。
しかも非常に熱心に。
「そんなことはない。私はだましたりはしていない」という反論を想定して次のように続けています。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
このあたりは戦争を知らない世代である私は想像するよりほかになく、どうこう言えるものではありませんが、当時あの悲惨な戦争を経験した人間の自問自答は痛烈に、重く心にのしかかってきます。そして、歴史は繰り返す、と言いますが、繰り返してはいけないことがある。それを歴史に学ばずして何の意味があろうか、と思うとまったく他人事ではありません。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
あの悲惨な戦争に対して良心的に、厳粛に考えないとしたらまた同じ過ちを繰り返すことになるのではないでしょうか。
続けて、2つ目の論。
いやいや、それではあまりに誇張しすぎだ。やはりだました人間がいて、我々はだまされたのだと言うならば、その前提を受け入れてみよう。ということで次の論です。
ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
だました奴が悪い。自分はだまされた被害者だ。責任などない、と言えるものだろうか、と。
そして次の言葉です。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
これは現代に生きる私たちにも痛烈に突き刺さる言葉です。
過去への反省なくしては進歩はありません。
以降の文章をよくよく噛みしめなければいけません。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
これはまさに、学問のすすめで福沢諭吉が説いていたことではないでしょうか。そう思われてなりません。国民の無知、無自覚、無関心、無反省、無責任が悪政を招き、それに甘んじて悲惨な戦争に至った・・・
以下徹底的な自己反省がおこなわれます。これはよく言う「自虐」とはまったく異なります。根本的なところを見つめ直す、私たち一人一人の個人の問題です。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。
いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。
この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
本文にあるように、だまされた、と言う場合、やはり上に、上というのは国政にだまされたということになります。
だます、だまされるという言葉は物騒ですが、悪政とはつまりそういうことではないでしょうか。
「学問のすすめ」から70年後の戦争と敗戦。
敗戦から70年後の現在。
教育の目的として「人類の幸せ」というゴールは素晴らしい。けれども漠然としすぎています。
文脈から具体的に落とし込んでいくと、こうした問題にぶち当たります。
自由、平等、平安は何が何でも守らなくてはいけない。
それを破ろうとするもの・・・ときに諸外国であり、ときに自国の政府であり
守るためには私たち1に1人が本当の智恵を身につけ、本当に賢く、聡明になること
これは大変難しいことです。
でも、教育は次の世代を育てること、未来をつくること。簡単なはずがありません。
では、本当の智恵とは何なのか、という話になってきますね。